みなさん、こんにちは。
先日YouTubeで施食会のライブ配信を行いましたが、
あれから動画を編集し直して字幕付きで新たに一般公開しています。
お唱えしているお経だけでなく、住職による法語や法要の内容についても
説明がありますので、是非ご確認ください。
さて、今日はタイトルにあるように私自身の自己紹介、そして僧侶になってから大切にしていることをお話ししたいと思います。
平成元年生まれの私は現在31歳になります。
姉が三人いる末っ子長男としてずっとお寺で育てられました。
生まれた時から周りからのお寺の後継としての期待を肌で感じてきました。
ただ、私自身は実は大学時代まで仏教に対して全く興味がありませんでした。
お寺で生まれ育ったにもかかわらず、仏教はどこかきな臭くて古いもので私には関係ないものだと心の奥で思っていました。
それでもいずれはお寺を継がないといけないことも理解はしていたので、大学卒業後は修行に行くことを決めていました。
転機となったのは福井県にある大本山永平寺での修行でした。
『般若心経』のような短いお経すら覚えていなかった私は、右も左もわからず、不安だらけでした。
ある日、参拝者の方をご案内する機会があり、その時こう尋ねられました。
「なぜ僧侶になろうと思ったのですか?」
私は何も言えませんでした。
出家しようと思ってなったわけではなく、ただお寺で生まれ育ったからという理由だけでした。
自分が僧侶である理由とは何か、生まれて初めて悩みました。
そして悩んだ結果、一から仏教を学ぼうと思ったのです。
永平寺での一年半の修行に一区切りをつけた後、駒澤大学に編入学しました。
駒澤大学というと駅伝で有名ですが、元々は僧侶の学校で、基本的な仏教や禅について学びました。
前に通っていた大学と異なり、仕事をやめて第二の人生として仏教を学ぶ方々や中国・タイ・韓国といった海外の僧侶がいたりと、いろんな人生経験、年齢層、経歴を持っている方との出会いもありました。
駒澤大学では修士課程まで進学し、素直に学問というものが面白いと感じた4年間でした。
駒澤大学を去った後、現在は田中寺の副住職である一方、港区にある曹洞宗総合研究センターという機関で勤めております。いわゆる曹洞宗の研究機関にあたります。
このセンターには様々な部署があり、大きく分けると宗門の典籍(道元禅師の『正法眼蔵』や瑩山禅師の『伝光録』など)を研究する宗学研究部門と布教教化を学ぶ教化研修部門があります。
私は後者の教化研修部門、通称教研(きょうけん)に所属しており、いわゆる人材育成機関となっています。
3年間のカリキュラムの中で様々な教化の勉強をさせて頂いていて、基本的な仏教や禅の教えを学ぶだけでなく、実際に老人ホームを訪れて法話をしたり、仏教系の高校で坐禅指導したり、保育園や幼稚園で仏教に関する演劇をしたり、古民家で喫茶イベントを開いたりとなんでもやります。
ちょうど今年が最後の3年目だったのですが、ご承知のごとく新型コロナウイルスによって活動に制限があり、現在は在宅勤務の状態です。
ただ外での活動はできなくても、今はオンラインでの坐禅会やSNSによる布教の形も少しずつ探っている状況です。
当寺でのオンライン坐禅会といったイベントも、教研で学んだことを生かしたものです。
教研でのイベントも再開できれば、このブログでまたご紹介したいと思っています。
以上が私の僧侶になってからの人生です。
改めて自分の20代を振り返ると、ふらふら寄り道ばかりをしているなぁと感じます。
仏教を学ぶ中で様々な人との出会い・喜びがある一方で、悩みも生まれました。
学べば学ぶほど、理想と現実のギャップに苦しみ、本当に生きる事は思い通りにならないと感じました。
ただ決してこの寄り道は無駄ではなかったと思っています。
道元禅師が次のような言葉を残されています。
「行を迷中に立つるは証を覚前に獲るものなることを」 『学道用心集』より
「迷いの中で修行をすることは、既に悟り(真実)を得ているのだ」というこの言葉。
曹洞宗の教えの根幹とも言える部分です。
この言葉自体は元々は出家者に対する教訓として伝えているのですが、これは現代の人々にも通じるものではないでしょうか。
「今目の前にあるやるべきことを丁寧に行っていく事が実は既に答えなのだ」
私自身がいつも自らに言い聞かせている言葉でもあります。
生きている中で迷うことは必ずあり、今でも私は自己嫌悪になることばかりです。
ただそれでも今は自らの身をもって前に歩み出すことに大きな意義があると信じています。
拙いながらも前に進む事の大切さ。
それは私がこのブログを書く理由でもあります
chakato4849様
ご視聴・コメントありがとうございます。
拙いブログですが、そう言っていただけると励みになります。
今から750年以上前の言葉ですが、迷ってしまう人の本質は変わらないと感じます。
迷いの中に喜びがあり悲しみがある。それが人生です。
先行きが見えない今だからこそ、大切にしたい言葉です。
是非機会があれば、坐禅会等にもご参加いただければ幸いです。
いつもありがとうございます。檀家の加藤です。先日の施食会ですが、父と拝聴させていただきました。私は毎年夏の施食会は平日は仕事の為、今まで参加出来ませんでしたが、今年はコロナ禍による在宅勤務にて、実家にてLive配信参加出来ました。私も父も配信越しでありましたが、晴れやかな気持ちになりました。ありがとうございました。今回のコラムも、迷いの中でも、諦めず模索している姿勢が大事なんだと、改めて認識出来ました。皆さん一緒なんだと、何だか、ほっとしました。 座禅会にも興味があるので、コロナ禍でありますが、機会があれば参加させていただきたいと思ってます。長くなりましたが、これからもコラムを楽しみにしてますので、どうぞ宜しくお願いします。