田中寺縁起
当寺ははじめ「浄見寺」と呼ばれ、寛永五(1628)年、破了和尚によって草庵風の寺として武蔵豊島郡天神町に開かれました。その後、寛永十七(1640)年、坐禅修道の一助にしようとして近くの田の中、現在の地に移転しました。
慶安三(1650)年、徳川三代将軍家光公が鷹狩りの折にこの寺へお立ち寄りになり、
「この寺、独り田の中にあり、もって田中寺としたらよかろう」
というご下命を賜りました。破了和尚はありがたく「田中寺」と改め、このご縁により毎年正月六日は江戸城中に祝賀参上することになったといわれております。
ところで、江戸山手には「二十八地蔵尊参り」があり、当寺は二十四番「富田地蔵尊」を祀っています。当寺に残されている破了和尚の『富田地蔵尊略記』によると、この富田地蔵尊の謂れは次のように伝えられています。
戦国末期、富田玄蕃なる人物が日頃地蔵尊を篤く信仰していた。ところが文禄三(1594)年、玄蕃に対して遺恨をいだく者がおり、ある夜玄蕃の家に討ち入りして首を取りました。しかし、翌朝その首を取り出して見ると、それは地蔵の首でした。その者は仰天して玄蕃のところに行き、事の次第を話しました。玄蕃も驚き、仏壇に安置している地蔵尊を見ると、なんとその首がなかったのです。
玄蕃は「これは日頃篤く信仰している地蔵尊のおかげ」と思い、なお一層信心精進に励んで、ついには出家をして仏門に入ったと言われています。後に浄見寺が建立されると、やがて地蔵尊が祀られるようになりました。
家光公がお立ち寄りの際に「田中寺」の寺号を頂戴したと先に述べましたが、その時にあわせてこの地蔵尊の謂れを聞き、「富田地蔵菩薩」と名づけられました。そして、通称「身代わり地蔵」として広く人々の信仰を集め、親しまれることになったのです。現在の富田地蔵尊は、墓地入口に青銅の地蔵菩薩として祀られています。また、家光公からは茶釜を下賜されており、当寺の寺宝となっています。